どこかで、西村寿行さんの小説が「まとまりのない〜」と批評していたのを読んだことがある。
まとまりのない、という部分はある程度認めてもいい。
なんであれば、荒唐無稽な、と言われても、そうかもしれないと思う。
しかし、それはある意味、芸としてのものであり、それを文章に起こすのは技でもある。
鷲のシリーズキャラクターである中郷が「バカタレ」と言う。
西村寿行作品を読む者は、それを待っているのだ。
鯱シリーズの十樹吾一が「ジジイ」と言うのも同じである。
それは確立した芸なのである。
「おれに絡むな。どうせ、おれたちにはつきはないのだ。庵に戻って飲もうぜ、このバカ仕事を肴に」
「そうだな、どうせ、おれたちにはつきはないのだよ、な…」
中郷は暗い貌で伊能をみて、嘆いた。
「鷲」 西村寿行 徳間書店 1997年7月 p252
西村寿行作品を読み終える時、自分の視線が柔らかくなっているのに気づく。
波乱に満ちた時間を生き抜いたものを見つめる目になっているのだ。
支離滅裂な事件に耐え抜いた、そんな登場人物たちを、見守っているのだ。
そして、自分を振り返る。
その時に思うことを大切にしたいと思う。
そのために、人は何度も西村寿行作品に、その世界に戻っていくのだ。
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