投稿

シニアこそAIとつきあうべき

イメージ
還暦後のシニアこそ、仕事の効率化とゆとりのバランスを考えないといけない。  仕事の効率化では、AIとうまくつきあうことが大事。 以下、シニアの仕事におけるAIとのつきあい方。 AIと落ち着いて対話する AIは、時々、求めているものではなく、まったくアテ違いの、役立たない知識を、得意げに、かつ長々と説明してくれる。 それを、シニアであれば落ち着いて眺めて、そうではないよ、と思いながら、次のプロンプトを考えられる。 年の功である。 あるいは、老化による鈍さによるものともいえる。 その意味で、現在のAIの教師役としては、シニアが向いているのではないかと思う。 AIを新入社員だと考える 日々、AIとやりとりしていると、使える分野が見えてくる。 AIの得意分野である。 シニアであれば、これまで現場で何人も若手の指導をしてきた経験がある。 その経験をAIとのやりとりで活かせる。 若手の相手をしていると、じっと耐えて待ってあげないといけないことがよくある。 それと同じことをAIとのやりとりでも経験する。 若手を指導することで学んだことが、ここで活きてくる。 やはり、AIとのやりとりにはシニアが向いている。 AIの得意分野を伸ばしてあげる AIの得意分野は確かにある。 これまでに気づいたこととして、資料の下読みは早い。 内容の要約も上手い。 こちらの意図が伝われば、かなりよい資料を作成してくれる。 問題は、こちらの意図を、時々、うまく汲んでくれないこと。 ああ、若手を指導しているときと同じだ。 そして、そのときは、じっと耐えて、なんども指導の仕方を変えて、できるようになるまで待っていたものだ。 そんなことを考えながら、過ごす時間。 それはまさに、シニアの好む、ノスタルジーである。  その上、こちらの意図が伝わるようになれば、作業は格段に効率化される。 シニアこそ、AIとつきあうべきだ。 Tweet

ホームドアの効果 小田急線と千代田線で通勤していて思うこと

イメージ
なんらかの理由で、線路内に立ち入る人がいる。 人身事故などのアナウンスがあると、悲しく感じる。 思いとどまることはできなかったのか、家族は寂しい思いをするのではないのか。 そんなことを考えてしまう。  他の理由で線路内に立ち入った人がいて、電車が遅れる場合。 またか、とか、何やってんだ、とか思う。 僕は通勤時間が多少長くなっても、勤務には大きな影響は出ない。 自分の乗っている電車が遅れても、まあ、なんとかなる。 それでも、同じ電車に乗っている人の何割かは、雰囲気が変わるのが感じられる。 ホームドアがあると、人の立ち入りは抑制できる。 ホームドアの効果に関して思うことは、以下。  ホームドアと人身事故 普段通勤やお出かけで利用しているのは小田急線である。 小田急線も、他線と同じように、人身事故は起こる。 その人身事故は、ホームドアの設置されていない駅で起こっているように思う。 その意味で、人身事故の原因となる行為を抑制する効果はあるように感じられる。 人身事故の当事者ではないので、間違っているかもしれないが、最後の一歩を思いとどまらせる何かがあれば、人身事故は避けられるのではないだろうか。 その、最後の一歩を思いとどまらせる何かとして、ホームドアは有効だろう。 ぜひ、設置駅を増やしてほしい。 そういえば、地下鉄駅のホームドア設置率は、小田急線よりも高いようだ。 人身事故を減らす必要性が、地下鉄の方が高かったのかもしれない。 長いトンネルを出てすぐのホームに人がいるというのが、乗客側にも、電車を運行する側にも、ストレスの高い状況なのかもしれない。 ホームドアと迷惑行為 迷惑行為はそもそも迷惑だからやめてほしい。 迷惑行為のあと、さらに線路内に立ち入るなど、迷惑度を増大させることも。 この場合の、線路内立ち入りは、ホームドアで抑制することは、一部できているのかもしれない。 ただし、迷惑行為をするモノは、迷惑行為をするだけのエネルギーがあり、ホームドアの隙間や上を乗り越えることは十分に可能。 そこまで含めて、迷惑行為を行う側はエネルギーを準備している可能性がある。 迷惑行為自体は、人の混み合ったところで行われていると想像できる。 そして、それが露見しそうになったときの逃亡が、さらなる迷惑行為となっている。 これに対して、ホームドアはあまり役立たないのだろう。 迷惑行為が発...

「たそがれ清兵衛」 藤沢周平 読むたびに…

イメージ
こんにちは、暖淡堂です。 入院して療養中だった父が亡くなりました。 それで急遽帰省しました。 葬儀では施主としての役割を担うことになっていました。 なので、ゆっくり読書をする時間はないだろな、と思って。 一冊だけ、荷物に加えることにしました。 それが藤沢周平作品の「たそがれ清兵衛」。 海坂藩を舞台にした、隠れた数人の剣客をそれぞれ主人公にした短編集です。 手元にあるのが平成17年(2005)1月15日の57刷。 これまで何度も読み返したので、表紙の、ちょうど指の当たる部分が柔らかくなっています。 表題作の「たそがれ清兵衛」は、同じタイトルで映画も作成されているので、そちらでご存じの方も多いかと。 映画はいくつかの作品のエピソードが組み合わされているので、本作を文章で読まれると、別の作品として読めることに気づかれるかと。 この本、読むたびに違った気づきがあります。 もちろん、そうだったのか、と前回読んだ時に見逃していたディテールを見つけるということは多々。 最近は、すっかり記憶力が衰えているので、読むたびに未読の作品と出会うようで、それはそれで経済的な効果もあるのですが。 そうではなく、今回気づいたこと。 それは、どの作品も等しく、傑作だと思えるようになった、ということ。 これまでは、いくつかの作品は最初の一読で傑作だと思いました。 表題作の「たそがれ清兵衛」、「祝い人(ほいと)助八」の二作品は初読後から大好きでした。 今回読み直して、その他の作品も、じっくりと味わえる、名作であると思うようになりました。 そして、どの作品も、その終わり方が秀逸であると。 以下は「日和見(ひよりみ)与次郎」からの引用。 藩内の派閥争いで失われた人々の仇を討ち取った後の、作品の最終部。  与次郎どの、と織尾が言ったように思った。今夜はずいぶんと手際のよろしいこと、お見事ですよ。見たのはわたくし一人…、二人だけの秘密にしましょうね…。  与次郎は歯を喰いしばって、寝静まった町を走り続けた。父があるときを境にみるみる老けたように、いま自分の若さが終わったのを感じていた。 「日和見(ひよりみ)与次郎」より、藤沢周平、「たそがれ清兵衛」、新潮文庫、p286 ちょうど父が亡くなって、自分が知る限りの父の生涯を振り返っていたところだったので、上の一文を目にした時には、いろんな思いが...

今はもう、穏やかではない:「風土」和辻哲郎

イメージ
ところで風雨が穏やかであるということは一般に気象の変化が緩慢だということなのである。 「風土」和辻哲郎、p130、岩波文庫 何かを読もうと思って書棚を眺めていて、ふと思いついてこの本を引っ張り出した。 それで開いたページにこの文章が書かれていた。 ヨーロッパの風土のことらしい。 この本の序言に日付が書かれている。 「昭和10年8月」とある。 日本が当事者となった、最後の戦争にむかう時期。 そんな時期に、一人の日本人思想家が、自分の目を世界に向けていた。 それも「風土」といものに視線を合わせて。 書籍一冊分、世界の「風土」について。 この書籍は、当時の日本人の世界に対する理解の仕方の、一つの見本でもある。 そう思いながら、上の文章の、少し前後を読んだ。 今夜はそこまで。 風土: 人間学的考察 (岩波文庫 青 144-2) Amazonで見る Tweet

蔵書の整理 結晶の精製のような

イメージ
引越しをするたびに蔵書の整理をした。 一番多くの書籍を手放したのは、就職した時。 勤務先では、まず社員寮に入って、研修を受ける。 手荷物は最小限で来るように、と指示を受けた。 それで、本は移動中に読む本数冊だけを持って行った。 その後は、転勤するたびに書籍を整理した。 暮らしていると、自然と蔵書が増えていた。 20歳代、30歳代は、ほぼ本は買って読んでいた。 結婚してから、時々は図書館を利用するようになった。 それでも、本は買い続けていた。 その結果、随分と本は増えていた。 書棚をはみ出した本を柱のように積み上げ、その間に板を入れて、棚のようにして使ったりもしていた。 地震があっても崩れなかったので、まとまった書籍の山は、それなりに安定するのだと、不用心に楽観していた。 海外駐在をして、帰国してからは、基本図書館を利用するようになった。 そして、帰国の機会に、蔵書を本格的に整理した。  海外で暮らしている間、多くの書籍を、トランクルームに預けておいた。 それが、帰国して、暮らし始めた自宅に、まとまって戻ってきたのだ。 大量の書籍の置き場所に困り、多くを処分することにした。  買取業者に自宅まで来て、値付けをしてもらった。 その時、ざっと500冊くらいを処分した。 それでも、まだ全体の1〜2割程度の感じだった。 専門書よりも、新しい文庫本の方が高かったりして、書籍の値段のつき方が面白かった。 で、その後も、継続して、まとめて書籍を処分した。 その結果、現在の自宅の書棚を埋めている書籍が残っている。 これも、時々、並べ替えなどをしている。 そして、手放してもいいかな、と思ったものは処分している。 その処分のペースが、最近になって、ぐっと落ちている。 もう、あとは、しばらくは手元に置いておいていいかなと思うような書籍ばかりになってきた。 この書棚の書籍群は、僕の一面であると思う。 書籍の題を眺めて、そう強く感じる。 時間をかけて、結晶化させ、それをさらに何度か精製したようなものだ。 これが純粋な結晶になったとき、僕のある部分は完成するのではないか。 そのときに向けて、精製の作業を続けよう。 Tweet