【北海道のこと】旭川で一人暮らしした頃の思い出 気楽な学生生活の始まり

2022-05-03

暖淡堂の足跡

旭川気楽な学生生活

1983年の4月から旭川の街で一人暮らしを始めました。一人暮らしを始める時は心細かったのですが、慣れると気楽なものでした。

旭川まで、当時の電車で各駅停車を利用して1時間程度。特急や急行を使うとさらに早くつけます。今の通勤を考えると実家から通うのも可能だったかもしれません。それでも、両親は、僕が18歳になったら一人暮らしを始めるのが当然と考えていたようで。大学進学が決まったら、すぐに大学の事務室に連絡してアパート情報をもらったようです。で、僕の知らないうちに部屋を決めてきました。

アパートの部屋への大型の荷物の搬入は、父親が借りてきたトラックで行いました。車でも、急がずに走って片道1時間半程度。一度家に戻って、身の回りのもの、当座の着替えなどを持って、あらためて父の車でアパートに向かいました。この時、玄関まで見送りに出ていた祖母が目に涙を溜めて手を振っていたのを覚えています。僕はおばあちゃん子でした。

それから、まだ周囲に雪の残るアパートの部屋で暮らし始めました。自炊をするので、近くにあるスーパーの確認をしました。銭湯を探したり、旭川の街中まで出る交通手段などを調べたりして数日を過ごしました。

その後、本格的な学生生活が始まりました。

正しくは、本格的に気楽な学生生活の始まりでした。僕の学生生活は旭川で4年、札幌で5年、トータルで9年に及ぶ長いものになりました。その最初の1年で思い出せることをまとめてみたいと思います。

銭湯に通った

アパートにはお風呂がありませんでした。それで銭湯に通うようになりました。当時確か120円くらいだったと思います。その後、少しずつ値上げされましたね。旭川にいる間に160円くらいになったかな。

銭湯にはいつも夕食前に行っていました。混み合うのが嫌だったのと、夕食でお酒を飲むのでその前にお風呂を済ませておきたかったのが理由です。早い時には、午後の講義が終わったらすぐに行っていました。

通っていた銭湯は、改装したばかりでキレイでした。広い湯船で、一部強い空気の泡が噴き出しているところもあって。背中に当てるといい気持ちになりました。メインの浴槽はラドン温泉になっていて、正体はわからないのですが、湯船の端の方に灰色の四角い塊が沈められていました。ラドンというと、顔のトンガった、でかい鳥を思い出すのですが、怪獣とは無関係ですね。

本当にラドンだったら、放射線を浴びながら入力していたことになります。何かで読んだのですが、ごく微量の放射線を浴びると体内で発熱が起こって、それが入浴効果になるとのことだったかと。それって、大丈夫か、と心配にはなります。理系の人間なので。

この銭湯には、この後少しして入部する軽音楽部の先輩も通っていました。その先輩とたまたま時間が一緒になったことがあり、僕がシャンプーを使って頭を洗っているのを見ていたようです。その時、僕はものすごい勢いで泡を撒き散らしながら洗っていたらしくて。それを飲み会の時などに笑い話にされました。

その先輩は、僕より2学年上でした。現在も音楽プロデューサーやご自身もアーティストとして活躍されていますね。m.c.A.Tさんです。

軽音楽部に入った

僕の通った大学は、1年生の時から大まかに専攻に分かれていました。で、その専攻の先輩に軽音楽部に所属している人がいて、軽音楽部の集まりに連れて行ってくれました。自己紹介でドラムを叩くことが出来ると話すと、すぐにバンドのメンバーに誘われました。軽音楽部にいて気づいたのですが、バンドの数は大体ドラマーの数と同じという法則がありそうでした。ギターを弾ける人は多いのですが、ドラムを叩ける人は少なくて、ドラマーが確保できるとバンドができる、みたいな。

僕が参加したバンドは、ギター二人、ボーカルとベースを担当する人が一人、で、僕がドラム。ギターの一人は大学外の人で、自宅に練習用のスタジオを作っていました。講義が終わると、みんなでそのスタジオまで行って、夜遅くまで練習しました。

その頃練習した曲が、レインボー、ジューダスプリースト、ブラックサバス、アイアンメイデン、マイケルシェンカーグループ、など。当時流行っていたヘビメタ系が多かったですね。なんとなく、高校時代にバンドでやっていた曲なんかもありました。

軽音楽部では年に一度、旭川市内の公会堂を借りてコンサートを開いていました。チケットをみんなで売って、費用にしていました。そのコンサートで僕の参加しているバンドはオリジナル曲を発表しました。その曲のギターリフ、全体の構成は僕が作ったもの。打ち上げでの講評では、そこそこに評価していただけたかな、という気がしています。

そのバンドは、僕が2年生になる春に一旦解散します。解散後は、メンバー全員が自分のバンドを結成して、それぞれ活動しました。音楽の方向性が違ったのですね。でも結局、3年生の春には、それぞれのバンドを解散して、また再結集しました。再スタートしたバンドは、その後、僕が就職するまで続きました。

お酒を飲むようになった

古い話なので、ご容赦いただきたいのです。大学に入学した時の新歓で、先輩に潰されました。その後、様々な新歓があり、そんなこんなでお酒を飲むようになりました。お酒自体は高校生の頃にも飲んでいて、受験勉強も少し酔った状態でしていました。あくまでも古い話なので…

で、夕食の時にはビールを飲むようになりました。思えば、この頃からごく最近まで、体調が悪い時以外はほぼ毎日お酒を飲んでいました。ここ数年ですね、お酒を飲む機会を週に数回にするようになったのは。ざっと35年くらいはお酒を飲み続けてきたようです。他人事みたいですが。

タバコは吸わないのです。父親はタバコを吸っていたのですが、僕は吸い始めませんでした。何度か吸う機会はあったのですが、習慣にはなりませんでした。

大学1年の夏頃でしょうか。旭川市内の松尾ジンギスカンのお店に行って、食べ放題、飲み放題にチャレンジしました。僕は飲む方に集中したのですが、当時で中ジョッキ8杯程度。一緒に行った友人の一人は見事10杯越え。他の友人は肉の大量摂取に挑みました。今はもう無理ですね。楽しい思い出です。

車の免許を取った

夏休みに自動車学校に通って普通免許を取りました。大学生協で申し込むことのできた、忠別川の河川敷に近い自動車学校でした。仮免許まではスムーズだったのですが、最後の技能試験で一度落ちました。すぐに補習を受けて、2日後に再検定で合格。住民票は、まだ実家のままだったので、学科試験は札幌で受けました。免許証を持って帰って、祖母に見せました。その時も祖母は目に涙を浮かべて喜んでくれました。

免許を取ってから、車でいろいろなところに出かけました。北は稚内、東は知床半島、南は函館、襟裳岬まで。北海道のトンガったところの先端は大体行きました。まだ行っていないのは、根室の納沙布岬くらいです。釧路には行っているので、あと少し足を伸ばしたら行けたのですが。

そのうち、家族を連れて行ってみたいと思っています。学生時代にやり残したことを片付けに。

*☺☺☺☺☺*

まとめ 

大学1年の頃の思い出を書いてみました。書き残したものがたくさんあります。その辺りは、また別の機会に。

暖淡堂出版の「沙河」には、自分が生まれてから高校2年生くらいまでのことを自伝的に書いてみました。昭和40年代、50年代の頃のことになります。その当時の北海道の小都市での暮らしが感じ取れるようにしてみました。また、北海道開拓民として入植した祖父母の足跡や、北海道で生まれ育った両親の若かった頃のことも、思い出せる範囲で書いています。

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