多摩丘陵に「よこやまの道」という、よく整備された散策路があります。住宅街からほんの少しだけ離れたところにあるのですが、自然が多く残されていて、木々の間をのんびりと歩くのにちょうど良い道です。
若干の高低差などはありますが、キツいということはなく、子供からお年寄りまでウォーキングを楽しめます。ところどころに休憩場所も設けられています。
休日には多くの人が歩いています。それでも、混み合ったり、窮屈に感じたりすることはありません。自分のペースで、体調と相談しながら歩くことができます。
よこやまの道は古代律令制の頃からの幹線道路。武蔵国から相模国、さらには京やその先まで行く人たちが歩いていました。遠くは防人として徴用されて、九州まで行く人もいました。
今回はよこやまの道にある防人見返りの峠の風景と、古代の防人制度、その他の史跡などについて紹介します。
防人見返りの峠
「よこやまの道」と呼ばれるのは、多摩丘陵が万葉集で「多摩の横山」と呼ばれていたから。中世の武士団に「横山党」と呼ばれる集団がいたのも、多摩丘陵地区に根ざしていたからでしょう。
よこやまの道の展望ポイントの一つが「防人見返りの峠」。これも万葉集に収録されている歌にちなんだ呼び方です。
遠く、九州の防衛拠点であった太宰府まで向かう人が、この辺りで家族を思い振り返った。そんな場所のようです。徴発された人々が、任期を終えて無事に帰ることができたのか、定かではありません。
現在の防人見返りの峠からは、永山から多摩センター方面、さらにはその先の山々まで見渡すことができます。木陰にベンチがあり、ちょうど良い休憩場所にもなっています。ここで昼食にする人も多いです。
防人とは
大化の改新(645年)後に制度化されたものとされています。日本は、朝鮮半島で行われた白村江の戦いに出兵しましたが、敗れました。大陸から日本に攻め込まれるのではないかとの恐れから、九州北部の太宰府に兵を常駐させ、防衛の要としました。
その兵として徴用されたのが防人と呼ばれる人々。防人の多くは東国の人々であったと、万葉集の記載から考えられています。東国の人々にとっては、重たい負担だったと想像されます。
徴用された本人は、身の危険を直接に感じることもあったでしょうし、残される家族にとっては、無事帰ってくるか、とても心配だったでしょう。
よこやまの道周辺は、中世、近世の戦略的な要衝でもあった
荘園などを守るために発生した武士団は、合戦の際には集団で移動しました。速やかに移動するためには、整備された道路を利用することになります。古くから使われていたよこやまの道は、武士たちにも使われました。
よこやまの道には、防衛のための砦跡や、合戦にゆかりのある場所もあります。鎌倉時代の執権北条氏が倒された一連の合戦のうち、分倍河原の合戦と呼ばれるものがあります。
討幕勢力の中心、新田義貞の軍を押し返すために分倍河原に向かう鎌倉の北条氏が野営した場所が防人見返りの峠の近くにあります。
分倍河原は多摩丘陵の縁を辿って多摩川の方向に緩やかに下った先にあります。ここに留まって合戦場に向かう士気を高めた武士たちの息づかいが聞こえてきそうです。
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まとめ
よこやまの道、防人見返りの峠へのアクセスは何通りかあります。京王相模原線稲城駅、小田急多摩線黒川駅、はるひ野駅などの利用が便利です。
これらの駅からは若干の距離があります。地図などをよくご確認ください。
防人見返りの峠を目指していかれる場合は、小田急多摩線黒川駅からセレサモス川崎の横を通って、明治大学農場前から国士舘大学まで上り坂を抜けて、右手に向かうルートがわかりやすいかもしれません。
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