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1月, 2026の投稿を表示しています

自分を遠くまで連れて行ってくれたもの、汽車、車、バイク、飛行機、そして読書

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子供の頃から、遠くに行きたかった。 ずっとずっと遠くの、自分の知らない場所まで。 そして、自分を遠くまで連れて行ってくれるものも、好きだった。 汽車、車、バイク、飛行機、それに、読書。 汽車 子供の頃は、まだ蒸気機関車が走っていた。線路を、煙を吐きながら走っている汽車を遠くから見るのが好きだった。 祖父母に連れられて、汽車に乗って遠くまで出かけた。昔の、旭川の街にはよく行っていた。そこに親戚が多かったのだ。 硬い、木の座席だった。木の床には油が塗られていて、独特の匂いがした。 祖父母が出かけるのは、冬が多かった。農作業のない、季節だった。 だから、僕が覚えているのは、雪原の中を走る、車窓の風景だ。 車 18歳の夏に、自動車の運転免許を取得した。 それから、大学に通っていた4年間は、車で北海道内を彷徨きまわった。 稚内、名寄、知床、阿寒、釧路、帯広、襟裳、室蘭、函館、小樽、石狩、浜益、留萌。大体行った。 なぜか、根室には行きそびれている。釧路から、ほんの少し先なのに。 生きているうちに行ってみたいと思っている。自分で、車を運転して。 バイク 就職してから、自動二輪の免許を取得した。 大型二輪の免許も取得して、すぐに1000ccのバイクを買った。 それからは、週末ごとに遠出をした。 山口県内を中心に、島根、鳥取、広島、福岡、大分、佐賀、熊本。 バイクでは、鹿児島には行っていない。 なぜか、行っていないところを少し残すクセがあるようだ。 鹿児島には、車で出かけた。家族で、旅行で行ってきた。 飛行機 出張で、飛行機を利用することが多かった。 国内は、沖縄県を除いて、大体の県に行ったか、通過した。 海外は、西の果てはスペイン。飛行機の窓から、遠くにアフリカ大陸を見た。 東は、アメリカのワシントンDC。 スペインも、アメリカも、ずいぶんと遠かった。 南はオーストラリア。新婚旅行と、家族旅行。 オーストラリアは、とてもいいところだった。 生きているうちに、また行きたいと思っている。 読書 読書は、ここにいながら、どこへでも行ける。 宇宙の涯にも、深海にも行ける。 そういう場所に行きながら、...

ストーブで思い出すこと

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  北海道で暮らしていた頃。 冬の暖房はストーブだった。 灯油のファンヒーターは、僕が北海道にいた頃は、ほぼ使わなかった。 エアコンでの暖房などは、考えたこともなかった。 石炭ストーブの頃 砂川では、冬の手当として石炭を現物で支給していたのかもしれない。 あるいは、必要な分だけ、買っていたのかもしれないが。 その辺りのことは、よく知らない。 冬が近づくと、トラックで石炭を運んできていた。 それを石炭用の物置に入れておく。 そこから、必要なだけ家の中に持ってきて、暖房に使っていた。 ルンペンストーブというものがあった。 新聞紙や細かく割った焚き木を置いた上に石炭を一定量入れる。 数時間は持つ暖房用のセットであった。 石炭が燃え尽きると、石炭を足すか、ルンペンストーブのセット自体を交換する。 朝にひとセット、夕方にもうひとセット。 夕方は、大体夕食の仕度を始める時間帯。 父が仕事から帰ってくる、少し前。 外が、雪の季節の夕方に特徴的な、青昏さに沈みつつある頃だった。 石油ストーブの頃 家の外に俵を少し太らせたくらいの大きさの灯油タンクが、どの家にもあった。 そこに灯油を蓄えておいて、そこから管で灯油を家の中の石油ストーブに供給する。 そうすることで、灯油が切れることをあまり気にすることもせず、ストーブを使うことができる。 自宅の居間には大きな石油ストーブがあった。 それで、部屋全体を暖めていた。 実家で炬燵は使ったことがない。 ずっと、部屋全体を暖めるというやり方の暖房だった。 ストーブの上には、金属製の盥のようなものに水を入れて置いていた。 その中では、ストーブを点けている間は、いつも湯が沸いていた。 加湿器代わりになっていただろう。 湯が必要になったときは、そこから汲み取って使っていた。 ストーブを点けると、猫がその周りに集まっていた。 近づきすぎて尻尾を焦がす猫もいた。 人間も、なんとなく、ストーブの近くにいた。 そこで、途切れ途切れに話をしながら、のんびりと夜を過ごしていた。 石油ファンヒーター、エアコン 就職して、本州に来て、初めて暖房にエアコンを使った。 石油ファンヒーターも、本州に来てから使った。 どれも、温風が吹き出され、部屋の中を暖める形。 で、いつも、頭の方が暖かく、足の方が冷たい。 そして、目が乾く。 加湿器を使わないといけない。 が、加湿器を...

一人きりの時間を楽しむ

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忙しかった一日の終わりを、一人きりで過ごす。 その時間を、有意義なものにしたい。 思い浮かんだことをメモする 詳しくは書かない。 簡単に、思い浮かんだ言葉だけをメモしておく。 それから何かを考えるのは、翌日以降でいい。 そのメモを、何を思って書いたのか、忘れるくらいでいい。 読書する 何度も読み返した本を、また開いてみる。 必ず何か、新しい発見がある。 違った意味が見えてくる。 そんなことが書かれていたのか、と気づくことが多くなっている。 そして、本が手に馴染んできているのに気づく。 そんな本が、増えていることが嬉しい。 暖かい飲み物を口にする カフェインの入っていないハーブティーなどがいいのだろうが。 白湯で十分だ。 熱いお湯が、少し冷めたくらいがちょうどいい。 白湯も、飲み慣れると、甘く感じるようになる。 古くは、客のもてなしに白湯を出したそうだ。 白湯がもてなしになるのも、わかる気がする。 ごちそうなのだ。 今日のことも、明日のことも、あまり考えない 寝る前のひと時を、その時だけのものとして過ごす。 寝た後、もう明日、目覚めないかもしれない。 そういう可能性もあるのだ。 そうであれば。 この時を、自分のために、穏やかに過ごしたい。 家族の顔をもう一度見てから、眠りにつきたい。 Tweet

還暦から、もうすぐ1年が経つ そして、何も変わらない日々

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  還暦を迎えてから、もうすぐ1年が経過する。 現状の、記録。     体調 体調は、還暦前後ではほとんど変わらなかった。 還暦を迎える直前の年末年始の休暇中に、原因不明の痛みが背中から腰にかけてひろがった。 左の肩甲骨の辺りから脇腹にかけて大きく膨らんで、内出血を起こしたように青黒くなった。 医者にいって診てもらったが、精密検査をしても原因がわからなかった。 そうこうしているうちに、治った。 それ以降は、特に体調を崩すこともない。 風邪も弾いていない。 まあまあ、それなりに問題なく過ごせている。 体力はジワリと落ちている感じはする。 歩くのが遅くなってきた気がする。 意識して、歩幅を広くしようと思っている。 トボトボと歩くと、それだけで老いた感じがする。 少なくとも、年齢以上に老いた感じを出さないように気をつけたいものだ。 仕事 還暦で、一旦定年を迎えた。 再雇用で、シニア社員という位置付けで仕事をしていた。 定年前から出向していた職場で、そのまま定年後も働いている。 管理職ではなく、自分に割り当てられた仕事を、期限内に終えて納品するという働き方。 スケジュールはあるが、日々の働き方は本人の裁量。 在宅勤務もできるので、仕事自体は辛いことはない。 安定した収入があるので、とても良い状態である。 で、出向元の会社の人事制度改定で、再雇用の社員は、希望すれば正社員に戻れるようになった。 1年だけ再雇用で、シニア社員。 その後、正社員に戻るというのもなんだかなあ、と思うが。 定年は、改めて65歳に設定された。 もう一度、定年を迎えるという経験ができる。 ならば、もう一度還暦を目指そうか。 次の1年の過ごし方 健康に暮らすことを一番に考えようと思う。 ストレスをためず、適度に休みながら。 家族での旅行も行きたい。 まだまだ本を作りたい。 読書もしたい。 行ったことのないところにも、行ってみたい。 家族で楽しめるようなことを、一つ、あるいは二つ、増やしたい。 そして、無事に1年を乗り切りたい。     - 暖淡堂書房の書籍から - 菅子四篇 改訂版 著者:暖淡堂 現代の暮らしでは、自分自身の在...

晩酌 三代(祖父、父、自分)

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  毎日ではないのですが、晩酌をしています。 父も、祖父も、晩酌していました。 それぞれの晩酌、思い出すまま。 祖父の晩酌 祖父は明治40年頃の生まれ。 生まれたところは、はっきりとは聞いていないのですが、和歌山県か、あるいは北海道入植後の道北の鷹栖、比布あたり。 祖母と結婚後、石狩川に沿うように南下して、何度か引越し。 野幌あたりで澱粉工場の経営をしていた後、砂川の東洋高圧内の電気工事をする会社に加わったようです。 僕が生まれた頃は、農地も持っていて、その一角に、祖父と父が自分たちの手で家を建てて暮らしていました。 僕が小学生低学年の頃。 祖父は、夕方、5時頃にはテレビの前の定位置に陣取り、晩酌を始めました。 飲んでいたのは、一升瓶に入っていた焼酎。 当時の焼酎は、透明な瓶に、水色や橙色で描かれたラベルが貼られていたように記憶しています。 それをコップに注いで、ゆっくりと飲んでいました。 テレビでは、水戸黄門など時代劇の再放送。 大相撲の中継があるときはそちらを観ていました。 祖母が用意した肴を少しずつつまみながら、酔いを楽しんでいたようです。 祖父は、当時の貴乃花のファン。 輪島や高見山もお気に入り。 で、若手の北の海は嫌いでしたね。 貴乃花が北の海に勝つと、声を上げて喜んでいたのを覚えています。 そして、家族の夕食が終わる頃には、寝室に行っていました。 父の晩酌 父は、砂川で育ちました。 義務教育を終えた後、祖父の勤め先で、祖父と一緒に働くようになったようです。 それが、大体、昭和30年代の頃のこと。 母とは見合い結婚。 祖父と協力して、新しい家を自分たちで建て、そこで新生活を始めました。 僕はその家で育ちました。 雪の降り積もる北国でも暮らしていける家でした。 当時は、朝、昼、夕方に、東圧のサイレンが鳴りました。 そのサイレンを、生活の中に取り入れていて。 土曜日などは、お昼のサイレンを聞いて「半ドンだ」などと言っていたと思います。 父は、夕方のサイレンが鳴ると、それから少ししたら帰宅しました。 父の帰宅とともに、家族の夕食が始まります。 父は、暑いときはまず冷えたビール、それか...

「老い」と「歩幅」

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  テレワーク比率の高い勤務形態 このところ、週に3日は自宅で仕事をしている。 出向先でもテレワークができるようになって、とても楽になった。 電車通勤が辛かった。 時間がかかるし、朝はとても電車の車内が混む。 電車通勤は辛い 乗り換えの駅では、乗客同士のトラブルなども実際に目にする。 それで、気分が塞ぐ。 夕方は帰宅時間が分散するのか、若干人は少ない。 それでも、電車内で過ごす時間は、あまり楽しくない。 テレワークができるのはとても嬉しい。 テレワークをしていて気づいたこと ある時、家で過ごしていて気づいたことがあった。 「ああ、家の中にいるときは、歩幅が狭くなっているなあ」ということ。 家の中の移動は、チョコチョコと歩いていて、あまり歩幅を広くすることがないのだ。 家が狭いから、というのもあるだろう。 家の中の移動を、急ぐこともあまりない、ということもある。 それで、歩幅が狭くなっている。 歩幅が狭いと「老人」に見える そのせいか、外を歩くときの歩幅も狭くなりがち。 その姿は、きっと他人からは「老人」が歩いているように見えるだろう。 ヨチヨチ、ヨタヨタ、の雰囲気だ。 それでは、いけない。 特に身体のどこが痛い、どこが悪い、ということはない。 ただ歩幅が狭くなっているだけ。 歩くことと健康のこと 意識して、歩幅を広めにして歩いてみる そうすると、身体全体の運動量が増えている気がする。 歩いている距離は同じだが、運動をした後のような、心地よい疲労感を感じられる。 きっと、健康に良いに違いない。 キレイな歩き方 道に、一本の線が書かれていて、その上を足で踏むように進む。 そうすると、ガニ股にならずに、キレイに歩ける。 そして、歩幅は、意識して広くする。 胸を張り、手を振る。 キレイに歩く自分の姿を見る 大きな鏡やガラス窓などがあれば、自分の姿をチェックする。 年齢に応じた、穏やかな歩き方ができれいれば幸せだ。     Tweet

今年の冬は暖かい? テレワークが楽になった気がする

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  コロナ以降、すっかり自分の仕事のスタイルとして定着したテレワーク。 定年後、出向先でもテレワークが可能になり、週に3日、自宅で仕事をしている。 コロナが始まって、まだ感染者数が増えていた年。 冬、自宅で作業していると、手元が冷たくなった。 南側の部屋で作業をしていたが、エアコンなしでは辛かった。 ただ、エアコンの設置場所の都合で、どうしても顔と手元に、側面から温風が当たった。 その状態が続くと、顔と目と手指の肌が乾燥する。 目の乾燥は、作業を続けていると辛かった。 それが、この冬は、少し楽になった気がする。 そもそも、昼間はほとんどエアコンを使わずに過ごせているのだ。 暖かいのだろう。 家で作業するのが、辛くない。 冬が暖かいのが、いいことか、わるいことか、それはわからないのだが。 来年の冬までには、テレワークを週4日にすることを考えている。     Tweet